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中2週報 第7号「明治維新150周年」 5月26日発行2018年05月26日

 修学館では,保護者に対するきめ細かい情報発信の一つの手段として,中1~高3の全学年,学年便り(週報)を原則毎週末に発行しています。日常の学校生活の様子等の情報を積極的に発信し,保護者との情報の共有ができればと思います。修学館のホームページでは,「学年便り(週報)から」というコーナーを設け,学年便りにあった面白い記事,感動する記事などを皆さんに紹介します。更新を楽しみにお待ちください!

☆明治維新150周年☆
 今年は明治維新150周年ということで,鹿児島があつい。昨日(5/25)も明治150年記念式典が県立体育館で行われ,本校からは高校2年生や,知事と高校生の対談に高校3年生のNさんが,そしてウェルカム演奏で中高生による弦楽四重奏の一員として中2のMさんが参加してきました。生徒の引率で,式典に参加した高校2年部の教員にたずねると,「内閣府の方もいらしてたり,もう鹿児島だけのイベントじゃなかったですね。国を挙げてやっているという感じで,参加できて良かった。」と言われていました。秋篠宮文仁親王もご出席されていたり,次の日に備えてブルーインパルスという戦闘機が鹿児島の空を飛んだりしていたのは,皆さんもニュースでご存じの通りです(戦闘機の音はすごかったですね)。ただ,残念なことに今日は相当な大雨が予想されるということで,予定されていたパレードやブルーインパルスの航空ショーも中止となったようです。また,TVでは「せごどん」が毎週放映されています。現在,鈴木 亮平さん演じる“せごどん”は,お殿様である島津 斉彬公に死なれ,安政の大獄の火の粉を受け,失意のうちに奄美大島に流されているところです。ドラマの中では,当時の薩摩藩がいかに厳しい年貢の取り立てを奄美で行っていたか,圧政の様子が描かれていたりして,心痛む思いで見ている方もいらっしゃるのではないでしょうか。ここから“せごどん”がどのように元気を取り戻し,活躍していくのか,楽しみな所です。

 そして,今年の中2の体験学習は,明治維新で活躍した薩摩藩(鹿児島)の人々のことを調べていく活動を行います。どうして日本の端にある薩摩藩(鹿児島)が,江戸時代という一つの時代が終わり,明治という新しい時代をつくりだすことに大きく関わることができたのか?事前学習として,今2年生はレポートをまとめています。テーマは,「歴史 人物 建造物 史跡 文化 産業 経済 (明治維新前後)」に関することであれば何でもよし。またそれは,「文字だけでまとめてもよし。図やイラストを加えてもよし。オリジナリティあふれるレポートを書こう。」ということになっています。調べ学習を行う中で,何か一つ自分なりの疑問を見つけようというのがポイントです。28日までに仕上げ提出するということになっていますので,ご家族の方もご覧になって,明治維新や薩摩(鹿児島)のことでご存じのことがあれば,ぜひご家庭で話題にしてください。

☆鹿児島の人で歴史に名前を残している人☆
 鹿児島県に住んでいる私たちは,鹿児島の先人が,数多くすばらしい活躍をしたことを知っている。先ほど話題に挙げた明治維新前後の人々はもちろん,例えば木曽三川の治水事業をおこなった平田 靱負たち多くの薩摩義士の話もそうである。それが元で,今でも鹿児島県は岐阜県と親しい交流があるし,岐阜県といえば,関ヶ原の合戦の敵中突破も有名だ。千名ほどで合戦に参加していた島津勢は,お殿様である島津 義弘公を生きて帰らせるため,「捨てかまち」という恐るべき手段を取りわずかな軍勢となりながらも,何とか義弘公を国元へ送り届けたということは,伊集院町の妙円寺参りというお祭りなどで今も語られている。

 今度体験学習で訪れる予定の「維新ふるさと館」では,江戸時代末期の英国留学生「薩摩スチューデント」について映像が見られるそうだ。留学生の最年少は,当時13歳の長澤 鼎である。串木野羽島から旅立つ時,13歳の彼は何を思っただろう。串木野羽島といえば少し前の話になるが,平成25年1月31日の南日本新聞web版,373News.comに,こんな記事が出ていた。
 江戸時代にロシアに漂着し、初の露和辞典を編さんしたゴンザをまつる、いちき串木野市羽島のゴンザ神社の石像が壊されているのが30日分かった。関係者は「地元で大切にしている像。非常に残念」と話した。いちき串木野署は器物損壊の疑いで調べている。隣接する羽島崎神社総代代表の寺師和男さん(71)が29日午前、ゴンザの像の鼻や両耳、まげなどが破損しているのを見つけた。28日午前の参拝時に異常はなかったという。壊れた部分は見つかっていない。ゴンザの出生地には諸説あり、羽島はその一つ。ゴンザ神社は2011年6月に新設。像は同10月に地元出身者が寄贈した。寺師さんは「復元は難しい。関係者と対応策を考えたい」と話した。
 これは,石像を壊した心無い人がいたというニュースであるが,「ゴンザ」という人のことを知っている人がどれくらいいるでしょうか。南日本新聞でさつま人国誌を書いている桐野作人さんが,ゴンザについて分かりやすく説明してくださっているので,簡単に紹介します。
 江戸時代中期、将軍吉宗の治世のころ。
 薩摩生まれのゴンザ少年(1718?-1739)は,鹿児島から大坂に向けた船(ワカシワ丸)に乗り込んで出航しました。船には米のほか,藩御用達の絹織物などの貴重品を積んでいました。なぜかといえば,薩摩藩主継豊は将軍吉宗の意向で,竹姫(五代将軍綱吉養女)を娶ることとなったので,そのための結納品を積載していたのです。将軍家との縁組みは何かと物入りなので,薩摩藩は何とか竹姫との縁談を断ろうとしましたが,吉宗直々のお声掛かりで,とうとう断れなくなりました。そうしたいわくつきの縁組みにゴンザの航海は関わっていたのです。ところが,途中,船が時化に遭い,ロシア領カムチャッカ半島に漂流しました。享保十四年(1729)のこと。ときにゴンザ12歳だったそうです。
 折からロシアは東進政策を推進していたので,日本人のゴンザらはロシア当局から厚遇され,首都ペテルブルクの科学アカデミーに所属して,露日辞書の編纂を命じられました。ゴンザはロシアの女帝アンナに拝謁しましたが,女帝はゴンザの流暢なロシア語に驚き,日本語学校を設立し,ゴンザをその教師にするよう命じたといわれます。仲間たちがほとんど死亡するなか,当局の勧めにより,ゴンザ少年は一人で露日辞書を編纂しました。一万数千の語彙を収集し対訳しました。これは世界初の露日辞典でしたが,実質は露日というより露薩辞書といったほうがよいでしょう。ゴンザは故国に帰れぬまま、わずか22歳の若さで異国の地に没しました。(桐野 作人さんブログ 膏肓記より)


 自分たちと同じ中学2年生くらいの人たちで,様々な生涯をおくった人たちがいる。鹿児島の先達を調べることが,新しい自分を探す活動になるかもしれません。6月1日の体験学習の日は,天気が良さそうです。街中を歩くときには十分に気をつけて,鹿児島のまちを,歴史をめぐりましょう!!!

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